蹴りたい顔面と苔

その人が視界に入ると苛々する。

そういう人がどの職場でも、たいてい、一人はできてしまう。

 

新卒で入社した会社にもいたし、書店員をしていた時にも。

学校司書をしていた時にはいなかったかも。

 

いまが一番最悪。

一人しかいない上司が、その、視界に入ると苛々する人になってしまったのだから。

 

塾の仕事というのは、確かに、子どもたちがいない間は暇で、でも、やろうと思えばいくらでもやることは見つかる。

テストを作ったり、より良い授業をするための準備をしたり、授業料のお知らせのデータ作成を効率化したり。

 

まあ、探せばいくらでも見つかる。

そういう点では、学校司書の仕事というのも同じかも。

暇な時間を暇として過ごそうと思えば、そうできてしまう。

 

そうしなかったのは、なぜなんだろう。

やっぱり、自分が腐っていくことを許せないという部分が大きかったのだろうと思う。

 

いまは、どちらかと言えばその逆で、自分の努力の大半はこの人の懐に還元されていってしまう、というマイナスの感情が強い。

 

子どもたちがいない時間の上司は、煙草を吸うか、お菓子を食べるか、パソコンをかちゃかちゃしているか、寝ているか、のどれか。

普通、寝るかな、部下の前で。

そういう姿が目の前にある、というのはなかなかにこたえるものがある。

自分はそうはならない、という意志とは無関係に、何かが壊され、何かが失われたような感覚だけが膨れ上がっていく。

 

自分のやる気やモチベーションを他人のせいにする、というのはあまり好きではないんだけど、こればかりはどうしようもない。

 

話は変わるけど、

苔を育てたい。

 

苔に惹かれる。

部屋で楽しむ 小さな苔の森

部屋で楽しむ 小さな苔の森

  • 作者:石河 英作
  • 発売日: 2018/07/17
  • メディア: 単行本
 

この本を図書館で借りてきてから、苔を育てたくて仕方がない。

 

苔は育てるものなのだろうか。

どちらかというと、育つもの、という感じがする。

 

やさしい気持ちにさせてくれ。

斜めの目

人として腐っていっている気がするきょうこの頃。

 

でも、それでもいいやと思ってしまいそうなくらいには、なにかが決定的に欠けてしまっている感じ。

 

かと言って、どう生きるのが立派なのかもわからない。

立派になりたいのかどうかも。

 

 

明後日は高校の学校司書の面接。

考えてみると、面接までいって落とされたことってたぶん一度もない。

そういう経験が、よくも悪くも自分の人生に対する見方を少しだけ斜めにしているような気がする。

 

大きく、絶対的な目標がほしい。

誰かがくれるものではないんだろうけど。

力の強い親知らず

健康でありたいと思いながら、健康であるときにはその有難みを忘れてしまう。

そういう節がある。

 

どことなく、恋人がほしいと思いながら、恋人がいるときにはその幸福に鈍感になってしまうのと同じような。

 

ここ一週間は親知らずのことばかり考えている。

ただの歯肉炎かと思っていたのだけれど、明らかに、親知らずが歯肉を突き破ってこちら側に出てこようとしている。

邪魔になっている奥歯は、親知らずに押されるようにして、おかしな向きになってしまった。

これ、大丈夫なのだろうか。

 

そして、昨日までの痛みはだいぶ和らいだものの、今度はそことは違う部分が痛み始めた。

親知らずが押しているのだろう。

一番近くにいる奥歯を押していることによって、その圧力が前歯の方にまで来ているのかもしれない。

右側下の歯が、どれも、小さく悲鳴を上げている気がする。

 

ドミノ倒しみたいに、全部の歯が傾いてしまったらどうしよう。

歯医者に予約はしたものの、混んでいるらしく、2週間以上先に。

あまりに痛みがひどいことにして、(実際に結構痛いのだけど)急患としてみてもらえないだろうか。

 

 

この歯の痛みと闘い始めて、平安時代の人たちってすごいよなあって。

親知らずとかどうしてたんだろ。

頭痛薬のない世界とか。

そういうことを考え始めると、きりがない。

この時代に生まれてよかった、と思うのは、きっと、人間に過去と未来を認識する力があるせいなのでしょう。

 

この時代に生まれて、って、なんか合唱コンクールの曲みたい。

 

上司と会話をする気力がない。

そもそも、会話をしたいと思えない。

この人の話を聞きたい、と思う人っていうのは、どういう人なんだろうか。

 

頭がいいとか、もの知りとか、そういうことだけじゃない。

人間的に尊敬できるかどうかや、その生きざまが魅力的かどうかということの方が重要な気がする。

 

そういう人って、いままであんまり出会ってない。

五十を過ぎた男って、どうしてやたらと横柄になっていくんだろう。

もちろん、そうではない人もいるけど、そうなってしまった人が目につきやすいせいで、イメージがしっかり付いてしまっている。

 

そうしないと、なにかが保てないのか。

 

かなしいなあ。

知らない歯の痛み

本業のやる気というやる気を失いつつあるきょうこの頃。

 

歯が痛い。

正確に言うと、歯肉なのだろうけど。

おかしな向きで顔を出している親知らずが悪さをしているのか、その影響で周りの歯肉が炎症を起こしているのか。

 

この前泊まったホテルの歯ブラシの硬さのせいだと思う。

なんかいやな予感はしていた。

って言っても、結果論なんだろうが。

 

昨日一昨日と、バファリンを飲んでしまうくらい痛くて、でも、そういう顔を見せずに仕事をしている自分にふと気がついた。

たぶん、顔を合わせた誰も、自分が歯の痛みに必死に耐えていることは知らない。

 

そんな風に、自分が会っている誰かも、実は何らかの痛みを抱えているのかも。

でも、そんなの聞くわけにもいかないし、察することだってできない。

 

まあ、当たり前の話ではあるんだけど。

 

 

アマゾンプライムでマスカレードホテルを観た。

面白かった。

いろいろなエピソードが一作の映画にぎゅっと詰まっているようで、映画を観ているとよく眠くなってしまうんだけどならなかった。

 

東野圭吾作品はたぶん一冊しか読んでいない。

どれも面白いんだろうな。

面白いということが最初からわかっていると、逆に読まなくてもいいような気がしてくるのはなぜなんだろう。

 

それはたぶん、じぶんの心がひねくれているからでしょう。

なにかに反抗するように生きているのか。

 

でも、なにになのかはわからない。

外側

なにかに熱中している人を見ると、心がざわざわする。

好きなことがないわけではないし、やりたいことがないわけでもないのだけれど、なんだか、取り残されてしまうような気分になって。

 

外側に自分ができたのは、いつ頃だろう。

中にしかなかった頃は、目の前のことに夢中になって、ただ、それだけだった気がする。

 

何をしていても、それを外側から眺めている自分がいる。

その、外側にいる自分に意識がいってしまうと、目の前のことがなぜだか少しだけ色あせてしまったように感じられ、それまであったはずの熱意が削がれる。

 

完全に外側に行くことができれば、幸せなのかもしれないし、そうでもないのかも。

ただ、生きているということは内側にあるということなので、どちらか一方しか選べないということがなんだか不公平なようにも思えたり。

 

何かに熱中している人を見て、自分の奥底から沸いてくる感情の中には、いろいろと綺麗じゃないものが混じっていて、そういう、よくよく考えてみればくだらないと言ってしまえそうなものに結局は支配されている。

 

でも、外側にいる自分に助けられることもある。

と思ったんだけど、そう思いたいからそう言っているだけのような気もしてきた。

 

本気出せ、って言われても、出し方がわからなくなってしまった人みたいに生きるのは嫌なのだけれど、どうにも、センサーが壊れてしまっているらしい。

って、それさえも言い訳みたい。